アダム・スミス その弐

2021年10月07日

この文章は、『アダム・スミス その壱』を読んでから、お読みください。



アダム・スミスが市場への参加者の資格としてあげたものは何だったのでしょうか?

アダム・スミスは『道徳的感情論』を書くにあたって、人間の本性についてとことん検証しました。

そして、アダム・スミスは一つの結論に達します。

それは、人間は『共感』する生き物であるということだそうです。

『人間というものをどれほどみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に懸けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外に何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないと感じさせる。他人の不幸を目にしたり、状況を生々しく聞き知ったときに感じる憐憫や同情も同じ種類のものである。』

ただし、共感は、人が生まれながらに持つ性向でありながら、現実の世においては、人間全員が持っているとは限らないともしています。

共感という性向を前提にすると、『道徳とは皆が共感を得ることができるもの』という定義ができるとしています。

道徳に適切な感情や行為は、自分以外の何者かから眺めた際に、共感できるものをいいます。

幼児が転んでけがをした。幼児が泣いた。他の人は幼児が泣いたことに共感します。慰めます。

幼児が転んで軽いけがをした。幼児は数時間泣き続けた。他の人は幼児が泣き続けることに共感するのは難しいでしょう。泣き止みなさいと注意します。

自分が当事者であったらどう感じるか、観察者は絶えず想像しています。観察者がいれば、自分の感情や行いを適切に処理できることが多いのは、共感を得たいという人の願望がなせる業ということになります。

このこと認識して、自分が観察者だったら、どのように感じるかを当事者が想像するようになります。

人間は、経験を積み、成長する中で、『中立的な観察者』を自分の内に持つことができるようになります。そうなると、周りに観察者がいなくても、当事者は自己の感情や行為を適切なものにすることができるとしています。

これに加えて、人間は単独で生活することがほぼ不可能な生き物ですから、集団の中では利己心を抑え博愛心を発揮することが必要となります。

まとめると、アダム・スミスが見えざる手が働く市場とは、

①参加者が、自身の中に『中立的な観察者』を持っていて、自分の感情や行為を適切に制御できること。

②参加者が、自己愛を抑制し、博愛の精神を持っていること。

全参加者が共感を感じられるときに、見えざる手が働き、個々の参加者の自己の利益の追求が、社会全体の利益につながるということになります。

言い換えると

個々の参加者が、自己を客観視し、自己愛を抑制し 、博愛の心で行動することにより、その行動が共感されて、参加者全体に利益が広がることになります。


もし、合法である限り、何をやってもいいとする参加者がいた場合、見えざる手は働かないことになります。現在の資本主義経済が貧富の格差を拡大しているのは、脱法しなければ、何をやっても許されるという風潮がまかり通ってしまっているからということになります。また、データを改ざんして合法に見せかける行為が横行して、アダム・スミスのいう市場そのものが存在していないからともいえます。

では、私はどうしたらよいのでしょう?

私のような零細事業者が行っている経済活動は、豆粒というのもおこがましいほどの小さなネットワークの中での活動です。

このネットワークの中を、まず、アダム・スミスのいう、見えざる手が働く市場に変えていくことから始めたいと考えています。



参考文献『なぜ経営者は石田梅岩に学ぶのか?』著者森田健司