善と悪

2021年09月29日

親鸞聖人いわく、

『善悪の二つ 総じてもって 存知せざるなり』

現代語訳すると

『何が、善か悪かわからない。如来様(真如を体現して来られた、仏の悟りを開かれた方)くらいしか三世十方変わらない善と悪を教えられる人はいない。』

となる。


俺に善と悪が解るかーという親鸞聖人の心の叫びが・・・・・。


ある人にとって善でも、ある人にとっては悪。

ある時代には善でも、ある時代では悪。

同一人物であっても、その立場によって、善と悪が入れ替わる。


善と悪というものは、相対的な判断基準。判断の基準は、人・時・場所・その他のもろもろの条件で変化する。


『仏の悟りを開かれた方しか、不変の善と悪を教えられる人はいない』ということなので、不変の善と悪は存在するのだろう。


しかし、不変の善と悪は私たち凡愚には解らない。


私たち凡愚の善悪の判断基準は、自分が属している世界で常識と言われている価値観に基づくことになる。


時代は変化していくから常識は変わる。


どんな時代でも、まわりの人を不快にさせない礼節というものは存在する。たいていの人が、他人のことを悪人と思っているだろう(善い人とは、自分が言うことを聴いてくれる人・かなえてくれる人をさして言う言葉だから。)から、最低限の礼節だけは死守すべきだが、あとは自己流で良いのかもしれない。善因善果・悪因悪果という法則があるから、現世の善い悪いは、来世に何に転生しているかで解るだろう。


ところで、親鸞聖人は

『善人なおもて往生す 悪人をや』ともいう。

現代語訳すると

『仏教を知らない人は往生する、ましてや仏教を知っている人なら誰でも往生する、』


法→体の行動で善人と悪人を判断する。殴る。

道徳→発言により善人と悪人を判断する。殴ってやると言う。

仏教→心により善人と悪人を判断する。殴ってやりたいと思う。


仏教的に見れば、誰もが悪人!


お釈迦様の本願は、誰をも救う!


善悪という得体の知れないものに拘ることなく、自分がやりたいことをコツコツやっていたら、その過程で善い出来事が起きるかもしれない。起きたときに喜びを感じることが出来るから、ラッキーくらいに思っておけばよいのでしょう。