娑婆(穢土)
娑婆(しゃば)の別称は穢土(えど)。穢れた(けがれた)世界。
なんで穢れているのか?
煩悩具足の世界だから。
煩悩で満ち溢れて穢れてしまっている我利我利な世界、己の我を通したいから、お互いの存在が邪魔な世界。
自分の思い通りにならないから、耐え忍ばなければならない世界。堪忍土ともいう。
そんな世界でも、『よくぞこの世に生まれたものぞ』の生命の大歓喜を得て、絶対の幸福に生きることができると説くのがお釈迦様の教え。
親鸞聖人は、
「生死(しょうじ)の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀(みだ)弘誓(ぐぜい)の船のみぞ
乗せて必ず渡しける」
と表現してます。
人間の営みは全て、生きるためにある。 生きる「手段」であり、人生の目的を解答できるものは一つもない。だから世の中どれだけ便利になっても、肝心の生きる意味が分からず、人類は苦海に沈んでいるのである。弥陀(みだ)弘誓(ぐぜい)の船とは、阿弥陀様の本願(人を絶対の幸福に導くという願う)を船に例えています。弥陀の本願に乗せていただき(生命の大歓喜を得て )、苦海を渡って必ず浄土へ渡れる身になりましょうと説きます。
『幸せになる』という生きる目的を理解して初めて人間は、手段を駆使して幸せになることができるということを「真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」と表現しています。『真(生きる目的)と仮(生きがい、目標)との違いを知らないから、人間に生まれてよかった、という生命の歓喜がないのだ』と解するのだそうです。
生きる目的を理解するにはどうすればよいか?
『仏法は聴聞に極まる』という教えがあります。
お釈迦様の本願は『すべての人の苦しみの根元を明らかにして、その根元を取り除いてやるしかない』すなわち『どんな人でも必ず苦悩の根元を断ち切って絶対の幸福に救う 』ということです。
聴とは、お釈迦様の本願を疑っている人ですら、阿弥陀如来のお許しを頂いて、本願を聴くことができる 。
聞とは、本願を正しく説かれる先生の教えを聞く 。
阿弥陀の教えを真剣に聞くということに尽きるということになります。
僕の場合は、毎日、書き続けるしかないですね。