永代と一代

2022年02月06日

井原西鶴先生という多彩な方が江戸時代にいました。

大坂難波の豪商です。

江戸時代の大坂は、日本全国から人が集まる場所、商業の中心です。浮き沈みの激しい場所です。

その危険な場所で、商人として成功をおさめ、隠居後も様々な俳諧や物語を作りだしています。

彼の作品は数百年たっても、人の生き方に多くの指針を与える普遍性が高いものです。

『日本永代蔵』は、儒教的な思考により『お金儲けはいやらしい』という一般的な風潮がはびこる日本(江戸時代から現在に至るまで)において、お金儲けは、人間の在り方として正しい、いやしくないということを正面から主張した作品です。成功した商人のお金儲けの方法を、さまざまな商人を取り上げることで紹介しています。倹約から詐欺まで、あらゆる類型が出てきます。

この作品のなかで強調されているのが、始末と工夫です。

永代(何代も財産を維持する)であるためには、始末(基本的な手法)がきちんとできていることと工夫(臨機応変な変化)をすることが必要としています。

家の存続すなわち組織を機能させ続けるにはという問題意識がうかがえます。


逆に『好色一代男』は、永代なんて気にするなという破天荒を勧める作品です。

自分一代で、何ができるかという、個人が生き生きと生きるにはという問題を取り上げています。

性を楽しむという点では、江戸時代の庶民は、日本の歴史の中で、もっとも享受した日本人ではないでしょうか。

ある意味、何でもありの社会で、そこでまっしろに燃え尽きるまで楽しむには何が必要なのかを書いています。

個人の才覚を磨くことを求めています。才覚とは、知恵のすばやいはたらき、機転をいいます。

刹那刹那を機転を利かせて生きていく冷静さと欲を実現する熱量が人生には必要だという問題意識がうかがえます。


井原西鶴先生は、商人として、『生々流転の環境で生きていくには、お金は絶対必要だし、欲は人間だから必然だよね、だけど度を超えた好き放題をやったらうまくいかないから自分の行動に倫理性も持っていないとね。』と3つの要素をきちんと調和させる必要性を説いています。


武家や儒教家は、『人間はこうあるべし・こうでなけれなならないという理想を掲げ、理想のために鍛錬すべし我慢すべし』という主張になりがちです。固定した環境下では理想を固定できますが、固定した環境というものは机の上にしか存在しないものですから、机上の空論です。