生死の一大事
人間にとって、『死ぬ』ということほど、大事なことはない(一番恐れていること)。人間は死ぬという定めから逃れることはできないし、 死の縁は無量と表現するほど、あらゆる危険が現世には存在している。いつ死んでもおかしくないのだから、いつ死んでもいいように、今を充実させましょうというのが、仏教の教えである。
今を充実させたいのだが、何かあるとオロオロしてしまうのが人間。
なぜオロオロしてしまうのか?
事実を正しく見ていないからとお釈迦様は言う。事実とは万物はすべて形が変わっていくということ。これを諸行無常という。しかし、人間は、目の前にあるものを不変と思い込んでしまっていることが多い。不変と信じていたものが突然変化したことを目のあたりにして、衝撃を受けて、オロオロしてしまう。
また、人は、他の人の自分に対する期待とはこうゆうものだろうなと常に思っている。自分が思った自分を演じている。自分を作っているから、とっさの事態に応じるために、どのように演じてよいかわからなくなって混乱してしまう。
他人と比較することで『相対の幸せ』を感じているから、周りの変化にオロオロしてしまう。
他人と比較しない『絶対の幸福』をひとたび感じることができたなら、他人と比較して生じた煩悩にじゃまされずに、やるべきこと・得たいものに集中して取り組むことができる。
オロオロすることなく集中すれば、心はすっきり・明るくなる。
結局、今を充実させるためには、得たいもの(果)を明確にすることが近道。
得たいものを明確化したら、どうすれば得ることができるかを考える。
段取りを考え、下準備をどんどんやっていく。下準備は、いつでも、どこでも、できる。
部品を作ったら、せっせと組み立てる。
やっている最中に死んだらどうする?という人が出てくるだろう。
お釈迦様は、業力不滅とおっしゃっている。現世でなした業は、果が出なければ、来世まで持っていくことになるのだそうだ。現世のみならず来世も充実させるため、今、最後の瞬間まで、せっせと種まきをするのが、善因なのだ。
生ききるとは、死にきる。100%完全燃焼する。真っ白に燃え尽きるのだ。やるべし、やるべし。