参勤交代
江戸幕府が制度化したの参勤交代は、当初は、徳川家康に忠誠を示すために各地の大名が江戸にやってきたことを随時ではなく2年に1回という形に整えたものである。
大名の妻子を人質にするという要素も大きいし、大名の経済力を削ぐという要素も大きい。
しかし、江戸幕府の本質は武断政治である。
長い戦国時代を経て、戦争のやり方も変わった。
鎌倉時代や室町時代初期のように、いざ有事のときに一族の代表者が数人の家来とともに食料持参で集結地に個々に集まってくるという悠長なやり方ではすまなくなった。
鉄砲が主力兵器になり、多数の弾薬と火薬を必要とするようになった。鉄砲は高価であり、訓練した専門の銃手(足軽)を必要とする。専門家を多数養わなければならなくなった。武器弾薬のほかに食料も人数分用意しなければならない。
いざ有事の時は、武器弾薬食料を大量に輸送する兵站部隊が必要である。
戦争にどんどんお金がかかるようになったのが、応仁の乱から始まる戦国時代である。
物資の輸送計画、運搬手段、輸送途中における食事の手配等、専門性を帯びる職種が多数出現した。
問題は、この兵站組織は平時にはあまり必要が無い組織であることだ。維持するだけで金もかかるから、平時には縮小したい組織なのである。
参勤交代の大名行列は、兵站部門を平時においても組織する必要が生じた。戦争は補給があるほうが勝つ。迅速に移動できるほうが勝つ。
戦闘部門は常に消耗するから入れ替わりが激しい。戦争開始とともに、平均的な能力値はどんどん下がる。戦争が進むにつれ、生き残った老練の戦果が一方的に上がるのは、訓練不足の素人と対戦するからである。
個々の戦力値が下がる以上、兵員の大量動員をしなければならない。これを支えるのが、有能な兵站組織であるが、一朝一夕には機能しない組織である。
江戸幕府の有能性は、戦争に必要な兵站組織を平時においても維持し機能するような制度を整えたことである。
個々の大名にとって2年に1回だが、参勤交代は毎年行われる。大人数の移動に適した道路整備も行われ、維持される。補給の集積地となる、街道沿いの主要な町も、補給物資を販売する商人が集まってきて、維持発展する。
明治政府になってから、人員・物資を大量に移動させる制度はなくなった。
江戸時代末期のクーデターに始まる戊辰戦争や日清戦争・日露戦争くらいまでは、江戸時代に培われた技術により兵站組織は機能した。
江戸時代人がいなくなるにつれて、日本の人員輸送能力は低下していく。
その結果が、太平洋戦争による補給の途絶による惨敗である。
戦争の本質は、補給である。補給が続いたほうが勝つ。このことを徳川幕府の設立者はよく理解していた。
明治政府の設立者たちは、あまり理解していなかった。結局、明治政府は80年で終了した。
物事を始めるときは、なにが本質なのか、じっくり考えよう!