形あるもの

2021年10月15日

石田梅岩先生曰く『元来、形あるものは、形がそのまま心である』。


この話でいう『心』とは本性をさす言葉だそうですが、

形による心(本性)とはなんでしょう。

カエルは、誰に教わることなく、ヘビから逃げる。

ボウフラは人を刺さないが、蚊になると人を刺す。

これらの動きは、学習の成果ではなく、形によって為されるもの、

すなわち、カエルという形によってカエルの本性は決まってしまうと捉えます。

人間以外の動物は、『生まれながらの性』と『現実の心』が一致しているから、迷うことなく形に従った実践ができると捉えます。

一方、人間は、『喜怒哀懼愛悪欲』という7つの情を持っているため、この七情によって心が曇ってしまい、生まれながらの性と現実の心が一致しなくなってしまうから、迷うのだそうです。

石田梅岩先生の解釈によると人間の本性は『共感力』ということになります。 心というものを、聖人のものであっても、名もなき庶民の心であっても、本来は、同じものだそうです。

普通の人は『喜怒哀懼愛悪欲』によって利己心が生じ、共感力が働かなくなって周りから孤立し、人生がうまく回らなくなってしまう。利己心を上手に制御できると聖人になれる、利己心を制御するのが下手だと庶民になる。このような分析を梅岩先生はされていると私は考えます。

とすると、

『聖人は己の行いから七情を除くことができるから聖人。名もなき庶民は己の行いから七情をなかなか取り除けないから庶民。聖人の行いを真似をすることで、七情を抑えることができる。』

ということになります。

ここでいう聖人とは、己の置かれた状況において聖人であると思われます。梅岩先生が生きた江戸時代は士農工商という身分制度が存在していました。農工商は、身分間の行き来がありましたが、農工商が士になることはほぼ無理な状況でした。そこでふてくされてしまわず、生まれながらに身分がほぼ固定されてしまう環境でも、人として人格を磨くことはできるという考え方を説いています。

為政者に隷従する卑屈な人間でもなく、我儘な個人主義者でもなく、無気力な傍観者に堕することなく、置かれた環境の中で自律的に生きる個人であることを梅岩先生は理想としていると感じます。

人間の形とは、共感する生き物であること。共感は、周りに盲従することで得るものではなく、個々が自律して生活しているから他者との間に生じる絆だと思います。

自律する。自分の人生は自分で律する。実践したいですね。