曖昧模糊

2021年11月02日

曖昧模糊(あいまいもこ):状態やようすが、はっきりせず、あやふやで、ぼんやりしているさま。 

あるかないか明白でないこと、おぼろげなさま、曖昧模糊(あいまいもこ)の状態を〈法華経方便品〉には「存して有(う)と為さず,亡びて無(む)と為さず」と記されています。 有耶無耶(うやむや)ともいいます。

仏教では、『世間にあるあらゆる意見・知識・見解は、人間の本能である存在欲(貪瞋痴 )を満たすためにつくられたものに過ぎません。人間は、 世間にあふれているいろいろな主張 を取捨選択して、何かしらの意見・見解を自分のものにしようとするのです。ひとりの人間がたくさんの見解を持っています。人間が複数いれば、どれだけ見解があるかわかったものではありません。それぞれの見解も当てにならず、次から次へと変わっていくのです。その中からひとつだけ選んで、「これこそ正しい」と決めることはあり得ない話であって、不可能、無理なのです。お釈迦さまは「見解はすべてゴミ」と言っています。仏教は、どんなゴミを捨てて、新たにどんなゴミを拾おうかという話には興味がないのです。八正道には「正見(正しい見解)」という項目がありますけど、その本当の意味は「見解がない」ということなのです。 』と説きます。

人が他と関係しあいながら生活する場所を世間といいますが、曖昧模糊な状態が通常です。

凡人は、存在欲(貪瞋痴)に囚われていますから、 何かしらの見解に自分をはめ込もうと試みますが、次から次に変わる状況は、凡人が考えた見解を容易に破壊してしまいます。凡人は、彷徨ってしまいます。迷いに迷うのです。何らかの型に自分をはめ込もうと何度も試みた挙句、型にはまらない自分に悩んで病んでしまったりします。

聖人は、存在欲が消えて、「見解がない」状態に達していますから、迷いません。自分の天命を全うすることに集中します。

曖昧模糊な世間で、迷いを少なくするためには、流行の知識を知ろうとするよりも、自分の天命は何だろうかと自分自身に問いかけるほうが効果的だと考えます。自分はこれをやるんだと決めたら、世間の雑音が消えて、すっきりする気がします。自分は凡夫ですから、迷いが無くなるほどの修行には耐え切れません。迷いが少なくなる生き方を選びます。自分がやりたいことをやっている今に集中するで良いと思っています。