等しく愚か

2021年11月11日

人は等しく愚かであるというのが、仏教の人間観だそうです。

誰しもが、日々、108の煩悩に負けてしまい、後でやっしまったなあと嘆いていますから、納得です。

人と接するときに、相手の心を察することは非常に難しいことです。自分が意図していないにもかかわらず相手の気持ちを逆なででしまうことも、たびたび起きます。等しく愚かの発現ですね。

交渉事の際に、言葉による説得、すなわち聴覚への働きかけは、30%程度しか相手の判断に影響がないそうです。残り70%は視覚への働きかけの影響だとか。見た目の印象が悪いと、それだけでまとまるものがまとまらなくなるそうです。

繰り返しになりますが、相手の心を察することは非常に困難です。仏教では、自分自身を見つめて、自分が嫌なことを、相手にしないように心がけること薦めています。

自分のことすらよくわからないのですから、他人様のことはよくわからないのは至極当然のこと。交渉の一瞬一瞬で相手の心を察しようと試みると、短時間で気疲れしてしまいます。自分が気疲れしている状態を相手は見ています。『自分と話すとこの人は疲れてしまうのだな、自分のことを相手は苦手に思っているんだ。自分を苦手と思っている人とは一緒に仕事をしたくないなあ』という判断を招くことになります。

人間はそこで考えました。場において、せめて相手に不快感を与えない行動をしようと!

長年かけて、不快感を与えない行動をまとめたものが、行儀作法やマナーといわれるもの。法律やルールのように罰則による強制力はありませんが、行儀作法やマナーに反した行為を人前ですると、もれなく自分の信用を無くすという効果が出ます。人前でなくても自分を律するものは道徳・モラルですが、行儀作法やマナーは人前で行う、人様にお見せすることを前提にして発達したものです。

行儀作法やマナーは型があります。型を繰り返し練習することで、誰しもが身につけることができるものです。反復練習することが『道』です。茶道や華道や書道や剣道や柔道や空手道などなど、世界には型を学ぶ『道』がたくさんあります。

人様の前ですることを前提にした型を繰り返し学び、行儀作法を身につけることは、人様の前でなくても自分を律することができるようになるという副産物があります。道徳を身につける方法でもあります。


相手に不快感を与えないということは、敵を作らないということになります。礼儀作法を身につけることは回り回って自分の身を守ることになります。