親ガチャ?
親ガチャという言葉を目にする機会が増えた。
生まれるときには、親を選べなかったんだから仕方がない・諦めようという言い訳に使われているようだ。
確かに、世の中、自分で選択できないことがたくさんある。また、自分の努力とは一切関係がないこともある。
とはいうものの、
自分が生まれてきた環境は不利だから、怠けてもいい、甘えてもいいという論理展開はいかがなものか?
ここ数日書いてきた、確固たる自分が存在するという考え方の弊害だと思う。自分を作っていく努力もせずに、確固たる自分の適性を認めない社会が悪いとか親のスペックが悪いからと自分の外側に責任転嫁する。
10代20代の若い段階で完成するほど人間は単純な生き物ではない。
情報技術によって時の流れが速くなり、時の流れに追いつくのにヒーヒー言っている人間が完成しているわけがない。社会が複雑化すればするほど、人間の成熟速度は遅くなる。また、変化に対応していかなくてはならない。人間は常に未熟なまま生きていく生き物である。
他者との比較によって得られる相対の幸福感は、周りの環境が常に変化している状況では、常に不安定である。自分の外側ばかりに目を向けている限り、常に自分の周りには自分よりも実績がある人が多数存在しているから、心の安らぐ暇は全くなくなる。自分より努力している人を認めたくないという気持ちが強く働いて、確固たる自分が傷つくことがないように、現実から目を背ける。自分自身の内面の一部にしか過ぎない部分に逃避する。
自分の中に自分の生きがいを見つけて、そこに向かっていくことで得ることができる、他者との比較ではなく自分自身の内面の充足感によって感じる絶対の幸福感が、今、人間の成長の糧として必要な物だと思う。
今の世の中、スマートフォン一つあれば、情報発信もできる。お金が無くても、コネが無くても、単独でできることも多数ある。自分で選ぶことができるものは、選べなかったものよりも、可能性がある。コントロールできないものに延々拘るのか、コントロールできるものを手にするのかで、未来は変わる。今選ぶことができるものに注力すべきだと思う。
最近、仏教に由来する文章を書き出したのは、自分の内面に目を向けて、自分がコントロールできない外側の環境に影響されないためである。